名刺代わりの小説10選

 

私が今まで読んできた中で、

爆笑したり泣いたりできた本を紹介する。

 

そもそも、私は本を全く読まない子供だった。

 

小学生の頃には小説を全く読まなかった。

本を読むより駆け回るのに夢中だった。

毎日友達と遊びまわっては喧嘩していて、

勉強だってそっちのけだった。

 

三国志好きの親友に連れられて図書館に行って、

歴史のコーナー周りをよくうろついていた。

そこではエジソンの伝記を見つけて、

一ページだけ読んだ。

読書感想文の宿題が出ると、

エジソンの伝記を読んだことにした。

夏休みの宿題だって、冬休みの宿題だって、

中学生の頃の読書感想文だって、

エジソンの伝記の一ページを読んで、

それらしく膨らませて書いて提出した。

 

友達と毎日遊びまわっていたから、

中学生時代だって全く小説は読まなかった。

勉強だってそっちのけだった。

遊び回ったから居残りをさせられたし、

・・・をして遊んで怒られたりした。

 

でも、いつまでも能天気じゃない。

生きていればまぁ色々なことが起こる。

人生は楽しいことばかりじゃない。

色々と辛いことを知るようにもなる。

 

それまでの自分はテストで大体60~50点。

でも能天気じゃなくなったとき、

中学最後の国語テストで高得点をとった。

他のテスト科目は60~50点だったのに。

 

その時に出された問題は、

夏目漱石『こころ』に関するものだった。

 

『こころ』夏目漱石

 

『こころ』は自殺と恋愛に関する小説。

“先生”と”K”という登場人物は、

同じ女性に恋をして、

最終的にkが葛藤の末に自殺する。

 

大して勉強をしていない自分が、

そんな内容のテストで高得点を取ったとき、

国語の若い女の先生は驚いていた。

*私の入ってた部活の顧問の先生

 

とても可愛がって、たくさん褒めてもらい、

下の名前で呼んでくれ、今思えば幸せだった。

僕が退部した後も気にしてくれていた。

『こころ』で突如に高得点を取った自分を、

呼び出して「どうしたの?」と言ってくれた。

自分は「別に」とごまかした。

 

その後も先生は自分を気にしてくれて、

太宰の『人間失格』は読んだら落ち込むから、

読まない方が良いとアドバイスをくれた。

 

結局『人間失格』は高校三年生の時に読んだが、

あまりピンと来なくて全て読んでいない。

一方で『走れメロス』は好きだった。

 

*「こころ」を中学卒業後に改めて読んだとき、

中学時代と全く違う目線で読めた。

そのことについては改めて、

『孤島の鬼』の紹介部分で説明する。

 

『走れメロス』太宰治

 

小学生の頃に親友について行って、

図書館の歴史コーナーでカエサルを知った。

「サイは投げられた」という名言を言った人。

そんなカエサルと同じローマ人が主人公の、

『走れメロス』。

中2の頃に『走れメロス』を読んで感動した。

それでもテストの点数は悪かったし、

本を読むなんてことは全くなかった。

 

ただし文学に対する興味は潜在的に膨らんだ。

ローマ人のカエサルやメロスに惹かれたし、

ローマに良いイメージを抱くようになった。

(後のローマ/ドイツ的文学作品への想いは、

この時から積り重なっていた)

 

私がローマ・ギリシャを好きなのも、

カエサルとメロスを知ったのがきっかけ。

 

『孤島の鬼』江戸川乱歩

 

江戸川乱歩は『少年探偵団』が有名。

小学生の頃は表紙の絵にテンションが上がった。

不気味で秘密基地的なワクワクする雰囲気。

ただし、内容は全然知らなかった。

明智探偵と小林少年が出ることは知っていたが。

 

乱歩の『孤島の鬼』にはタイトルから惹かれた。

内容としても面白いというので手始めに読んだ。

 

通販で買ってみて、届いたら分厚くて驚いた。

怖気付きながら読んでみた。

すると、面白い。

主人公のデートシーンが初々しくて、

それでいて事件が勃発して、

驚きの展開に目が離せなくなってワクワクした。

 

「驚きの展開に目が離せない!」なんて、

ありきたりな宣伝みたい。

でも本当にそうなんだから笑える。

本は一週間くらいですぐ読み終わった。

 

読了後は「はぁ、そうなのか」となる。

全てに臨場感があって生き生きしていて、

ドラマを見ているような感覚。

読みやすいし、本当におすすめの小説。

ラストシーンには悲痛に感動する。

自分はこれを読んでいるとき泣いた。

 

ドラマといえば『こころ』の同人CD。

声優さんの声がとても良いのだが、

なかなか解釈が過激なので。

同性愛に抵抗無い人にしかお勧めできない。

 

『こころ』の再解釈

 

以下に私の一解釈を紹介する。

登場人物の”先生”は同性の身体に魅力を感じる。

主人公は海水浴場の同性に肉体的な魅力を感じ、

あまつさえ同性の精神にも惹かれている。

あえて先生は語らないが、

明らかに先生はKの精神性に憧れていて、

自分のことを卑下しているし、

ずっとKのことを意に留めてる(意中)。

身もこころ(精神)も同性にぞっこんなのである。

 

ちょっと小難しいことを言うので、

以下の一部は読み飛ばすのをお勧めする。


精神をこころとして表現できるのはまさに日本的。日本においては、精神=こころ=心=想い(たとえば、まごころとして、こころは意と同じ意味である)。西洋的な文脈の中では、スピリット=ハートとはならない。精神は心と異なる。ハートはこころかつ心臓を指し示し、スピリットは精神や霊魂を指し示す。日本で精神としてみんなに認識されているものと、西洋で精神としてみんなに認識されているものとは厳密には違う概念である。

西洋では精神として霊魂について、大真面目に何千年も研究が行われている。それに対して日本では、精神として心や想いについて熱心に研究が行われている。そして、研究の成果はそれぞれ別物として現れると言うことは、簡単に予測がつく。

日本で精神として一般的に認識されているものと、西洋で精神として一般的認識されているものとは厳密には違う概念であることに注意しなければならない。そうでなければ、日本人にとっての西洋人の精神概念は、トンチンカンなでたらめ、間違いだと誤解してしまう。西洋人からしてみても、日本人にとっての精神概念は、トンチンカンなデタラメ、間違いだと誤解してしまう。日本人と西洋人とで、そもそも語っている概念が違うものだと理解すれば、日本的精神概念に慣れている者と、西洋的精精神概念に慣れている者のお互いが、「間違いだ!」と反発し合うことが避けられるのだから。

日本で言う精神と、フランス語のエスプリ、ドイツ語のガイスト、英語のスピリット、それらの概念が指し示すものは同一ではない。


 

直接的な性行為の描写がないだけで、

『こころ』は同性への”惚気”

“同性愛”が執拗に書かれている小説である。

 

高校生のときも中学生のときと同じく、

『こころ』がテストに出題された。

その時も中学のときと同じく高得点をとった。

(他の科目は相変わらず60~50点だった)。

 

テスト後に国語の先生に呼び出され、

「最近調子どうだ、大丈夫か?」と聞かれた。

国語教師はよく私を心配してくれる。

中学生の時と同じく、

自分は強がって「別に」と答えた。

 

面談中に友達が自分の帰りを待ってたから、

早く帰りたいオーラを出した。

そしたら国語教師は僕を帰らせてくれた。

 

あの人は本当に僕を気にしてくれていた。

中学・高校と、国語の先生だけが、

自分と真剣に向き合おうとしてくれた。

文学が人と向き合うものであるのと同じで。

今となっては、本当に感謝の気持ちに溢れてる。

いつか、もう一度会って、お礼を言いたい。

 

 

話を戻して、江戸川乱歩といえば思い出がある。

乱歩がきっかけで年上のお兄さんと知り合い、

夜ご飯をご馳走になって、世話になった。

あのイケメンは今何をしてるんだろう。

 

『僕の孤独癖について』 萩原朔太郎

 

朔太郎が『僕の孤独癖について』、

という自伝小説を書いていたと知ったとき、

即座に青空文庫で全てを読んだ。

 

一言一句がこの私自身のことのようだ。

「やっと、自分と同じ仲間を見つけた」

 

次のような描写は全く自分自身みたい。

●隠れるように学校生活を送るが、

外見も性格も特別目立つ

●神経が極めて過敏状態になる

●気がつくと放浪している

●人と滅多に社交しない

●寂しくなって人以外に話しかける

 

中三から本心で誰とも話せなかった朔太郎。

彼だけが私の側の”悲しい友人”だった。

孤独な者は孤独な者と特別に繋がれる。

 

 

『車輪の下』ヘッセ

 

中学時代に国語の先生は、

よく僕のことを「メルヘン」と言ってきた。

当時の自分はメルヘンなことが大好きだったし、

先生は僕をロマンチストだと見抜いていた。

それに中学時代はドイツの音楽を聞いていた。

 

高校生時代にメルヘン(童話)文学が気になった。

そこでドイツのメルヘン作家、

ヘルマン・ヘッセに興味を持った。

もともと邦楽バンドのArt-Schoolの

『車輪の下』をいつも聞いていたから、

何かの縁だと思い『車輪の下』を読んだ。

 

ちょっと小難しいことを言うので、

以下の一部は読み飛ばすのをお勧めする。


まず、主人公が受けた「精神教育」「精神に烙印を押された神学徒」というのが作品のキーワードである。

知性によって加速させられた意識の覚醒により起こる、大いなる精神を自覚した契機による、子供→大人という成長過程で、具体的に顕れた存在としての個人である自己存在や現象世界は、滑り落ちるようにして意識から軽視されうる。まさに精神は大いなる永遠であり強力であるから、相対的に具体的に現れる存在が極めて対照的に、矮小に感じられ、軽視されるのである。

精神の領域から我々は高みと驚異的な力を得られるけれども、精神の強大さは愛らしくちんまりとした現象世界を、相対的に軽視し始めるきっかけをもたらす。

軽視とまで表現するのが過激だとして、より穏便な表現をすると、愛らしくちんまりとした世界へ向けられる意識を削ぐ、という表現ができる。


 

現象世界を愛(め)でる衝動に駆られたハンスは、

チロチロ流れる夜の川のせせらぎと、

川に反射する、あの美しい月光に、

キスしようとして、命を落としたのである。

 

ヘッセの各小説は「愛でる」ことが書かれてる。

愛でることは幸せをもたらすため、

読むと本当に幸せな気持ちになれる。

 

ただし『エーミール』は、

蝶や人間関係がひどいことになるし、

メルヘンチックではないですがね。

 

『愉しき放浪児』アイヒェンドルフ

 

よく放浪して遊んでいた自分は、

『愉しき放浪児』に興味を持った。

ロマンチック作家による旅小説。

ビルデュング・ロマーンというジャンル。

*旅をとおして人格を成長させるジャンル

 

でも実際に読んでみたら人格成長小説ではなく。

愉快なお遊び小説という印象だった。

病んでる時に読むととても良い。

 

無職の主人公がバイオリンを抱えて旅に出て、

道中では美しく愉快な人と出会って、

最後にはお嬢さんと懇意になって、

職業と背広を中古で手に入れる。

それでハッピーエンドってな感じ。

現代日本人からしたらだいぶミニマムな幸せ。

 

今日本で『愉しき放浪児』の生き方をしてたら、

貧乏だし、バカにされたりしそう。

ただし現代日本版『愉しき放浪児』は、

電気と水道は使えるしイージーモードだろう。

 

といっても現代日本みたいな便利な場所では、

物欲の際限がなくなる。

結局のところ欲望が手に負えなくなって、

心身の調子を崩すのが目に見えてる。

 

そうした際限ない欲望はアノミーという。

そうした『アノミー』を戒めるのが、

『愉しき放浪児』的なライフスタイルで、

ミニマム思想(ミニマリズム)の先駆け。

 

トルストイの『イワンのバカ』も、

ミニマム思想(ミニマリズム)の先駆けだが、

『愉しき放浪児』の方が、気持ちいい作品。

トルストイの『イワンのバカ』は説教的すぎて、

文学特有の感覚的魅力がなくて、

あんまり悦びが感じられない。

対して『愉しき放浪児』は感覚的に気持ちいい。

読んでいて微笑めてワクワク悦べる。

 

悦びといえば、次に紹介する『春琴抄』は、

究極の悦びを感じられる小説。

 

『春琴抄』谷崎潤一郎

 

いつからか谷崎が”耽美派”小説家だと知って、

機会があれば読んでみたいと思っていた。

そうしたところ『春琴抄』を読む機会があった。

 

なんといっても表題が素晴らしい。

内容も題名に見合うくらい美しいようだ。

ということで読んでみることにした。

 

この小説はSMのジャンルに分類される。

でも一般的に想像されるSM作品とは、

以下の点で毛色が違う。

 

●大真面目に江戸時代の「主・従」の関係

だからこそ作品が本当に真剣なおももちで良い。

●全くもって健全な雰囲気

江戸時代の子弟という関係だからこそ、

「主従」「攻め・受け」が社会的に認められ、

「異常」である心理的圧迫感があまりない。

「異常だ」との心理的圧迫感が強いと苦しい。

「異常感」の苦しさでSMはしばし忌避される

でも『春琴抄』は”江戸時代の子弟”だから、

そういう心理的圧迫感を取り除いてくれる。

 

SM(というより主従/攻めと受け?)に関しては、

次のような自論が少々ある。


SMは公には語れない心理だからこそ、

息を合わせる二人の秘密という感じを生むので、

極めて特殊で恍惚な趣味として極上である。

 

ちょっと小難しいことを言うので、

以下の一部は読み飛ばすのをお勧めする。


もしもSMが公的なものになれば、

もはやSMの特殊な恍惚性は失われる。

 

まさしく『春琴抄』は、恍惚性の理想系。

読んでいて至高を感じる作品だった。

永遠に誰にも踏み入れられない、

主従関係の秘境が体現されているから。

 

その関係をさらに秘められた関係にする失明。

考えうる限り究極的な理想型が示される。

ある種の事故、必然性による失明は、

作品の「異常」感をいくらか解消してくれ、

気持ちよく読める助けとなっている。

「こうなるのが仕方ない」と思えて、

心理的圧迫感が少ないまま読める。

暴力シーンは描き方次第で、

本を放り投げたくさせたり、

取りつかれたように読みたくさせる。


 

また「音・匂い・肌触り・味覚・視覚」。

これら五感を総動員する描写がされてるから、

日常生活がイキイキと伝わってくる。

生活描写も美味しい感覚にする谷崎の手腕。

 

日常生活が破綻していない上で、

“江戸時代の主従”だからこそ許された、

究極の恍惚を極上に楽しめる最高さ。

 

なんだかんだ言って春琴さんは、

ツンで一途な女性に読めるのも良い。

 

プライドの高さのあまり、

「盲人と召使の子」を許せず、

他の人に育ててもらうよう計ったり。

春琴の人間性を理解できるからこそ、

春琴の人間味がリアルに伝わる。

 

その子がまたプライド高そうに、

春琴と佐助に会いたくないと言ってる。

それもまた親子で似てて面白い。

作り話だとしたらよくできている話だ。

 

ただ「墓所が大阪にあって尋ねられる」

と書かれていたり、実話みたい。

実話みたいと思わせるギミックが上手。

 

 

『蠍の火』宮沢賢治

 

誰のためにもならず、

人を傷つけてばかり、

自分はいったいなんなんだ、

こんな、ためにならない、

奪ってばかりの自分は、

そんな心境を語る蠍の小説。

宮沢賢治は繊細な人の気持ちを吐露する。

 

繊細な人は、次のことに葛藤する。

「生きる上で何かを傷つけ、苦しめること」

 

傷つけることや苦しめることに繊細な人、

そうした人の心の友となってくれる賢治。

「繊細だ、ぐちぐちしてるな(怒」と、

責められる者の友。

あと、ベジタリアンにも心の友となってくれる。

 

有名な『注文の多い料理店』は、

食事の苦しさを描いた作品。

 

賢治自身はベジタリアンだった。

アンチベジタリアンはアンチ賢治なのかも。

ベジタリアンは賢治と親和性があるかも…。

 

『ツァラトゥストラはかく語りき』ニーチェ

 

詩や小説や哲学書の形式といった、

いろんな文芸の表現が総なめ的に使われている。

 

いろんな文芸の手法が使われているので、

いろんな文芸の方面の人が、

それぞれ別の視点から評論できるし、

自分と畑違いな人がみんなそれぞれに、

自分の畑の解釈で楽しんで読める。

 

内容に「神は死んだ」と書かれているので、

ニーチェはアンチキリストと思われるが、

実際ニーチェはイエス様について別の本で、

「あのお方は〜するべきだった」と書いたり、

個人的にキリストは好きなのではないかと思う。

 

少なくともニーチェは宗教を否定していない。

『ツァラトゥストラはかく語りき』は、

隠者の聖典。

「〜であるべきだ」などと繰り返し述べられ、

教えを構築している点がもろに宗教的。

プリンシプル(宗として)尊む要素があり。

立派な宗教書・聖典として成立する。

ゾロアスター教の新一派である。

 

ちょっと小難しいことを言うので、

以下の一部は読み飛ばすのをお勧めする。


ゾロアスター教とは、紀元前数千年前の思想家であるゾロアスター(ドイツ語ではツァラトゥストラ)が開祖の宗教。ゾロアスターが生きているときの信者は、家族と王様との数名だったとされている。ゾロアスターの死後には信者が増えた。有名人としては、クイーンのフレディ・マーキュリーが信者。あまり簡単に入信できないようで、宗教としては、キリスト教・イスラム教・仏教と比べて、マイナーな部類に入る。古文献研究者であったニーチェは、ゾロアスター教を研究していた。

“死後に審判が行われる”、”善悪二元論”はゾロアスター教の教え。キリスト教の”最後の審判”の教えにも影響を与えたと考えられる。また、日本企業のマツダは、善悪二元論の”よい神様であるアフラ・マズダ”から影響を受けて、英語表記をマツダではなくマズダにしている。


 

この本は、宗教書でありながら哲学書であり、

アドバイス本であり叙情作品集でもある。

 

“教え”が構築され崩されるのは哲学的だし、

ピエロの事件や風が吹く時、

生死の狭間の描写は泣けてくる叙情作品。

 

日本語訳でこんなに深く楽しめるのだから、

ニーチェ直筆のドイツ語原文で読んだら、

さぞかしブッ飛ぶくらい味わえるだろう。

 

人里離れた自慰行為で子が現れると満足し、

“永劫回帰”でツァラトゥストラの子を想定す、

重要な哲学概念が提示されている。

 

いろんな楽しみ方ができすぎて、

1話のピックアップでたくさん批評を楽しめる、

分厚くたくさんの話が収録されているし、

ニーチェが人生を懸けて描いたような、

人生の生写しを受け取れる。

 

本の冒頭は隠者文学感が溢れていて、

読んでも普通の人はピンとこない。

だから気になる目次から読むと良い。

幅広いトピックからお気に入りを発見できる。

 

 

『兎の眼』灰谷 健一郎

 

私が図書館で読んで涙を流した本。

登場人物たちはみんな何かしらの弱者で、

人々の生きる営みには、

「生」を強く感じる力が示される。

 

●新人教師の繊細で穏やかな救済の雰囲気

●一見アウトローな先生の真っ直ぐな真心

●子供の無垢でストレートな情熱

●怖ろしい罪人の老人

みんな、身の毛がよだつ「生」を表す。

 


●主人公の先生

主人公の先生だけが特に弱者ではない。育った家庭環境もよく、職業は教師だ。

夫にこじんまりすることを求められるが反抗するという点で、弱い立場から発言できる強い立場へという志向のある人だと暗示される。作品全体に流れる一つのテーマ、弱者が強者に対抗するという全体のストーリーに、先生の立ち位置がマッチしている。

先生が休日に仏像を見に行くという描写は、作品をとおしてこの人自身が仏像的な立ち位置で、文学的な素養により他の登場人物を癒す暗示となる。

 

●アウトローな先生について

大切なストレートな想いを持って、

子供達と接して指導をする。

自らの生き方によって生徒たちに、

大切なものを示そうとしている重量な人物。


 

生きていると失うものがたくさんある。

失っちゃいけないものをたくさん失う。

「生きるために仕方ない」

そう思って犯した過ち、後悔のいかに多いこと。

生きるために仕方なくやったことによって、

「生きる輝き」はくすむ。

後に残るのは後悔や自責、悲痛。

 

でもそんな恐ろしい後悔や自責の中でも

「生きる輝き」はキラリと残される。

 

『兎の眼』は、あらゆる弱者にも、

生きる輝きがあるということを示す。

心痛な草の根文学の傑作。

 

以上が私の特に好きな小説、

泣いたり笑ったりできる、

『名刺代わりの小説10選』。

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